毛馬の閘門

久しぶりの更新です。春の陽気に誘われて毛馬の閘門をぶらついてみました。
毛馬の閘門は淀川が大川(旧淀川)と新淀川(旧中津川)に枝分かれする所にあります。
暖かくなってきたのでルアーフィッシングや公園でのんびりするには最高の場所です。
地理的には北区と都島区の境にあり実際の住所は都島区になるようです。
ちょっとZIP破りなんですがギリギリなので良しとしましょう。


毛馬近辺地図です。一帯は公園になっています。 堺筋から淀川の土手を東へブラブラ行くと川を遮る巨大な建造物が見えてきます。淀川大堰です。 長さ330mの管理橋と55mのゲートで淀川を分断しています。通常は川の水を下流に流し海の水を淀川に入らないようにしています。 管理橋の南側は大川の入り口、毛馬の水門と閘門があります。
淀川大堰の管理橋の上を南側から見ています。向う側は東淀川区です。この橋は立入禁止です。閘門の前の路は歩行者と自転車だけ通行することができます。 毛馬の水門と閘門の解説板が都島区側にあります。作られた歴史などが書かれています。逆光で少しボケてしまいました。 この場所は大川の始まり、すぐ南側には桜で有名な毛馬桜ノ宮公園があります。ここも桜が満開でした。花見客もいましたよ。 赤い門が閘門、その向う側は水門です。水門は淀川が洪水のとき大川に水が流れ込まないように閉めて、大堰のゲートを全開にし大阪湾に洪水を流します。
閘門を裏から見ています。閘門は淀川と大川を船が行き来するためのゲートです。淀川と大川の水位が違うためここで水位を調節しています。 閘門の大川側の門です。先ほどの門とこの門の間で水位を調節するんですね。残念ながら行ったときは船の通行はありませんでした。この向う側が桜ノ宮公園です。 見学者のために淀川大堰、毛馬水門・排水機場、毛馬閘門の説明板があります。写真は無いですが水門の隣に大きな排水機があります。排水機は洪水のとき大川の水を淀川に汲出す役目をします。 旧洗堰アーチです。この他旧閘門も施設内に保存されています。残念ながら現在、工事をしていて入ることができませんでした。
閘門の都島区側には毛馬で生れ育った与謝蕪村の句碑が建てられています。『春風や 堤長うして 家遠し』 句碑の横には蕪村礼讃の碑があります。内容は長文なので以下をご覧下さい。 淀川大堰から西側を見ています。一帯は河川敷公園になっています。とても静かで魚の跳ねる音くらいしか聞こえません。ここだけ時間が止まっているようでした。 淀川大堰の管理橋の西側には長柄共同橋が架かっています。この橋は水道やガス管を渡す橋で通行する橋ではありません。その向うは阪急電車です。

蕪村礼讃

碑面の
春風や堤長うして家遠し 蕪村

の句は安永六年(一七七七)蕪村六十二才の正月に出した春興帖「夜半楽」の中の「春風馬堤曲」の第二番目の句である。「春風馬堤曲」は蕪村が故園の毛馬に対する強い郷愁の思いをうたった異色の作品である。「春風馬堤曲」は俳句漢詩それに和詩を交えた十八首から成るものであってそれは大阪からやぶ入りで毛馬へ年ぶりに帰る若い娘の気持ちになって蕪村自身の郷愁の思いを詠んだものである。この曲の序で蕪村は故園の毛馬に昔からの知り合いの老人を訪ねたように書いているがこの時蕪村は毛馬へ帰ったのではなかった。のみならず蕪村は毛馬に生まれて幼年期少年期をすごして二十才ごろ毛馬を離れて以来一度も毛馬へは帰っていないのである。京に住むようになってからは何度か大阪へきている。ある時は桜の宮の近くまで来ているがついに毛馬へは帰らなかったが、京と大阪の往復には淀川の三千石舟を利用しているから舟の中からははるかに毛馬の堤や毛馬の家々をながめたであろう。それだけに蕪村の心の中には毛馬への思いが強くやきつけられたのである。大阪から毛馬へ来るには淀川の昔の毛馬の渡舟をわたるのであるが、そうして毛馬の堤に立った時毛馬の家々が遠くにながめられ故園に帰ったという気持ちが心の底からわき上がってくる。その気持ちを詠んだのがこの句である。蕪村はこよなく故園の毛馬を愛した人でありそれをまた誇りにしたのである。「春風馬堤曲」につけて伏見のある門人に当てた手紙に

馬堤は毛馬塘也
春風馬堤曲 則余が故園也


と毛馬が自分の故園であることを声を大にして告げている。その手紙ではまた「実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて」と「春風馬堤曲」をなした心境を伝えている。この碑面の句はこのように蕪村の毛馬に対する深い郷愁をこめた句であるから、毛馬にあって蕪村を慕い蕪村を記念するにはまことに適当なものである。この句を口ずさむことによっていつまでも蕪村の偉大な業績とその人柄をしのぶのである。このような人を生んだのは毛馬の大きな誇りである。
 蕪村は享保元年(一七一六)に毛馬で生まれたのである。姓は谷口と伝えられ後に与謝と改めている。幼名や通称はわからない。その生まれた家は毛馬のどの辺かと云うとそれも全く分からない。ただ、今の毛馬町五丁目あたりの河川敷ではないかと推測されるのみである。蕪村は子供のころはいつも毛馬の堤の上で遊んだものであったが二十才のころ毛馬を離れて江戸に下った。そうして早野巴人の門に入って俳諧を学んだ。しかし六年後には巴人が歿したので蕪村は関東各地の巴人門の先輩をたよって漂白の生活をした。そのころ蕪村は町または鳥と号していたが、延享元年(一七四四)宇都宮で出した歳旦帖ではじめて蕪村と号するようになった。このような生活は十数年つゞいたが宝暦元年(一七五一)三十六才の冬京に上った。これからは蕪村は宮津で四年ばがり滞在したり讃岐へ旅をしたこともあったが京で家庭生活を送った。蕪村の結婚は四十三才ごろと推定される。妻の名はとも。くのと云う娘が一人あった。蕪村は天明三年(一七八三)十二月二十五日六十八才でこの世を去ったのである。墓は洛北一乗寺の金福寺の境内にある。蕪村が生まれたのは芭蕉の没後二十二年目である。芭蕉が唱えた薫風俳諧も後継者がないため全く色あせたものになっていた。蕪村が俳人として活躍した時は「芭蕉にかえれ」を目標とした。後蕪村は師巴人の夜半亭の号を継いで夜半亭二世となって立机した。一門の人々は云うまでもなく他の多くの俳人達と互いに提携して新しい俳諧の世界を開いたのである。蕪村一門の撰集には「其雪影」「此ほとり」「明鳥」「続明鳥」「桃李」「花鳥篇」「五車反古」などがあり、蕪村の著作には「夜半楽」の外に「新花摘」がある。蕪村は俳人として大きな業績をのこしたが一面画家としても数多くの作品をのこしている。画家としては当時文人画の第一人者と云われた池大雅と並び称され、この大雅との合作の「十便十宜図」は国宝となり、その他にも蕪村の絵には重要文化財に指定されたものが何点かある。蕪村の絵は重厚感のある山水図軽妙な人物画俳画などと分野が広く独特の新鮮な感覚が漂っている。また蕪村は絵においても毛馬を忘れてはいない。宝暦九年(一七五九)ごろの作品に「河南趙居」または「馬塘」と明らかに淀川南岸の毛馬やその堤を意味する落款を用いている。蕪村が終生使った「東成」は当時毛馬が属していた郡名そのまゝである。こうしたところにも蕪村の郷愁があらわれている。毛馬の人蕪村、これは永遠にわれわれの誇りでなければならない。



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【交通】
市バス「毛馬橋停」下車徒歩5分ですが、
地下鉄天神橋筋六丁目駅から北へ淀川まで行き土手沿いを東へブラブラ歩いて行くほうが良いかも。

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